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矢形的神社


大瀬川左岸の山腹の南向きの急傾斜地に、階段状に拓かれた矢形的[やかたのまと]集落内に鎮座の【矢形的神社】のご紹介です。

 集落の起源については明らかではありませんが、その昔、肥後守菊池氏の一族の武士がこの地にて土地を開き居を構えたそうで、この武士の邸宅跡(やかたあと)が訛転じて「矢形的」になったのではないかと云われています。

 この武士は大小二本の刀を所持していたようで、集落民はその刀を「矢形様」と呼び、その保管が村世話人(現在の分館長さん)任期中の最大の仕事だったとのことでした。が、終戦時に連合国進駐軍の命令により没収されたのだそうです。

 この刀、日之影町史によりますと「名刀」であったらしいです。
 また、集落の年配の方によると、向かいの集落である「尾払」に住む『やかた』という人物が、この集落に的を置き矢を放っていたことから「矢形的」というと聞いたことがある。というお話を伺いました。

 どちらが本当のことなのかは現在の私たちには想像するしかありませんが、なかなかに面白い言い伝えだとおもいました。

 特別な歴史を持つ数社を除き、日之影町の神社の大半は菅原道真公を祀る『天神社』です。それらの多くは社殿を持たないままで、大きな磐や大木の根元などに石の祠を置き祀っていましたが、明治の始めに社殿を設けた様子がさまざまな文献から見て取れます。明治政府が人々に神仏分離を「かたち」として浸透させた証のひとつかもしれません。

 さて、【矢形的神社】ですが、調べるのに大変苦労しました。
古くから諸塚村や追川集落とを結ぶ交通網があり、これらの地域から流入した習慣なども神社に大きな影響をもたらしたと想像できます。

 【矢形的神社】は、祭神に大山祗神と菅原道真公を祀ります。
神社には六枚の木札が残ります。その中の二枚に、明治四年に廃寺となった真言宗の二寺の寺名が見えます。二寺とも延岡の恒富に在ったようでした。

 延岡の内藤家文書に二寺の名を見ますが、矢形的との関連を断定するような文言に出会っていませんので、なんとも言えないというのが現況です。
 ただ、諸塚に鎮座していた「盲僧宮」との関連を思い起こさせる書見もありますので、後日の調査としたいとおもいます。
 
 神社境内後方に型を崩した年代不詳の宝塔が四基あります。
日之影町史は、二寺の末寺が近くにあり廃寺となった時に神社に預けられたものかもしれないとしています。
 仮にそうだとして、現在は真新しい道路も整備されていますが、今なお山懐に擁かれたこの矢形的という集落に何故に延岡の二寺が入り込んでいたのでしょう。

 その当時、神仏習合の思想がまだ色濃くあったはずですので【矢形的神社】とのかかわり方も当然深かったと想像しているところです。

 この神社には応永四年(1397)銘の町内最古の鰐口が残っています。鰐口は本来は仏具なのでお寺にあるものです。

 金属製梵音具の一種で、鋳銅や鋳鉄製のものが多く、鐘鼓をふたつ合わせた形状で、鈴(すず)を扁平にしたような形をしています。

 上から吊るすための耳状の取手がふたつあり、下側半分の縁に沿って細い開口部があります。
 金の緒と呼ばれる布施があり、これで鼓面を打ち誓願成就を祈念したのだそうです。

これがまさに【矢形的神社】における神仏集合の名残りだといえましょう。
 また、彩色の男女一対のご神像も、六郷満山における神仏習合の思想の名残をとどめ、この集落がその昔どのような様であったのかを想像するに充分の証を見せてくれます。

 【矢形的神社】に関してはいくつもの「証らしきもの」を見つけましたが、それらを確定させる資料や史料に出会っておりません。もちろん口伝にもです。
(引用先:日之影町の神社さん)
 
 

【矢形的神社Googleストリートビュー】

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【矢形的神社写真】

◎写真


 

◎店内写真


 

◎外観写真


(写真提供者:日之影町の神社さん)
 
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【矢形的神社情報】

[記事公開日]2016/11/17
[最終更新日]2019/02/01


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